小さな命

今日はきちんと記録として残しておきたいことがあります。
まったくのプライベートですが、個人的に書き記します。

ここのblogにも何度か登場している、我が家の愛猫の1匹が先日天に召されました。

実家より一報が入り翌日10時の火葬に間に合うよう、朝イチの新幹線で実家へ。
居間に横になっている姿をみたら、ただ泣きつくしボーゼンとしてしまい。
荼毘にふされるその瞬間まで、私は彼のそばを離れることができませんでした。

夜になってもその思いはあふれ、そして今、こうしてこの話題を書いている瞬間も、その悲しみがよみがえってきてしまいます。
いろいろな事情で、一緒に暮らすことができなくなり実家で飼うようになってから十数年――。
私とすごした日々なんて、猫にとっては忘却のかなただとは思いますが、私にとっては蓮と過ごした日々はかけがえのない時間でした。

たった一度だけ、私がまだ20代前半の頃、布団の中で泣いていたら、いつもは布団のそばには来ない蓮が、私の頬に流れる涙をペロっとなめに来たことがあったのですが、後にも先にもこんなことをしたのはこの夜だけでした。また、我が家に友人が来たときも、私があまり得意ではない人に対しては、まったくなつきませんでした。このシンクロ率は100%。今、思い出しても不思議な出来事です。

なぜか今年に限って年末とお盆に帰省していない私。
生前の蓮に触れた記憶がもう1年も昔の出来事で、何をやってるんだ私はと、ここ数日毎日毎日思っては、明日もあさっても、この日が続くとは限らない現実をかみ締めています。正直、この事実は誰よりもよく分かっていたはずなんですけれど。

もう二度と蓮の体温を感じることは出来ないし、話しかけたりもできない。
そして、
しばらくはこの悲しみから開放されることもない。
訃報を聞き、何もかも放り出して蓮に会いにいったけど、結局遅い。
いくら名前を呼んでも彼は目をあけてはくれないのです。

それまで犬しか飼ってなかった私が、初めて猫を飼ったのが蓮でした。
新宿のペットショップで衝動買いに近い状態で買って家族になったあの日から、私の20代は蓮と共にありました。
とても賢く、最期まで自力でトイレに行こうとしたと母から聞き、さすが蓮。と最後にたくさんほめてあげたいです。

小さな命の終わりを経験するのははじめてではないですが、やはりこの経験は切なくつらいものです。

私が蓮にできることはもう何もなくなっちゃったけれど、それでも日々蓮を思い、これからも過ごしていきたいなと思っています。

蓮、生まれてきてくれて、私と家族になってくれてありがとう。