書くことへの責任感

Wikipedia の記事の信憑性について以前からいろいろな人と話をしていました。

今日、こんな記事をみつけました。

Wikipediaの問題を改良した実名投稿の「Citizendium」公開

ネット百科事典としてはWikipediaが圧倒的に有名だが、Wikipediaでは身分を明かさなくても記事を編集して投稿できるため、記事の信頼性に問題を生じることがあり、最近では社会的な問題にもなりつつある。
 Citizendiumを設立したLarry Sanger氏はWikipediaの創設時から関わっており、この問題を解決するために、専門家の監督のもとに一般人が実名で記事を投稿するという Citizendiumのモデルに行き着いた。そして、実現のためにNPO法人を設立し、寄附などによってプロジェクトを維持する体制を築いた。

 Citizendiumには2つの役職がある。記事の品質を確保することに責任を持つ編集者と、実際に記事を投稿する執筆者である。編集者となるために必ずしも博士号を持っている必要はないが、特に学術的な内容が関係する場合には、その分野で大学教育などの専門的な教育課程を経ていることを示す必要がある。それ以外の専門的分野、あるいは趣味の領域などの分野でも、その分野で責任ある編集が行えることを示す証拠が必要となる。

 記事の執筆者には誰でもなれるが、Wikipediaとは異なり、実名で投稿しなければならない。そして、記事の品質を高めるためにできるだけの努力を払うことが求められている。その上で編集者が記事の内容に間違いが無いかどうかを確認し、場合によっては訂正が求められる。

 このように、誰でも参加することができる「wiki」の特性をできるだけ維持しつつ、専門家の関与を強め、実名投稿を義務付けることによって品質を高めるというのがCitizendiumのモデルだ。Citizendiumは現在英語版が用意されており、これが成功すればほかの言語にも進出する可能性があるとしている。
「impress watch」より引用

コレ、日本では流行らないとか、そういう意見もどこかで見ましたが、流行る流行らないとかどうでもいいんです。
日記だろうが、情報だろうが、自分が書いた文書を公にする以上、書いたことへの責任は生じるものであって、だからこそ雑誌などでは、ライターさんの名前が記載されているのです。これは私が書きました。という責任です。
そして雑誌の裏表紙、のどの奥付部分にある、編集人などの記載も、ライターのソレと同じ意味あいを持ちます。

もちろん名前を出すことにより、原稿に対して賞賛もあるでしょうし、非難もあるでしょう。
でも、そういったものすべてに責任をもち、ライターは原稿を書き、編集者は編集作業をしています(最近そうじゃない人もたくさんいますけれどね。特にwebの業界)。
そして書いたものを世の中に出す、ということはそういうことだと、私は思っています。
自分の書いたものに責任を持つ。その覚悟のない人は、誰にも公開しないで日記などを書いているべきです。
こうして日々私がここに書いていることにも、実はある一定のラインがあり、それを超えたことは書いていませんし、書くつもりもありません。この書くことへの責任感は、お金が発生している、していないは関係ありませんね。自分の中で、人に見られる文を書く際の決まりごとのようなものですね。
もちろんお金が発生しているなら、こんなことは大前提であって、わざわざ説明する必要もないんですけれど。。。

話をWikipedia に戻しましょう。
確かにWikipedia は、とてもよくできたシステムです。だからこそ、この「Citizendium」に、私は大大、大大賛成派です。
Wikipedia の信憑性があがれば、本当に最強ですもの。